【二〇一五年 杏】
父の事件が発覚してからというもの、修司は何度も私に連絡をくれた。
けれど、私はそれをすべて無視していた。父の事件について調べることで頭がいっぱいだったし、新のことを守らなければという責任感もあった。
何より、私自身があまりに疲弊していて、誰かと向き合う余裕なんて持てなかった。
でも、修司はあきらめなかった。
どんなに冷たく突き放しても、彼は決して離れていかなかった。私の周りからはすべての人たちが遠ざかっていった。
先生や親せき、周りの大人たち……友達さえも。けれど、修司だけは変わらずに私を追いかけ続けた。
それが、どれほど嬉しかったか。
救いになったか――突然、スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、ディスプレイには「修司」の名前が表示されている。
私はためらいながらも、通話ボタンを押した。「……はい」
『あ……杏? よかった。
あのさ、もしよかったら二人で会わない?』「え……」
返事をためらう私に、修司は慌てたように続ける。
『あ、いやなら、別に……』
「いいよ。……じゃあ、いつもの公園で」
電話を切ったあと、私はゆっくりと立ち上がり、出かける準備を始めた。
「姉ちゃん、どこ行くの?」新の声に振り返ると、彼は心細そうな表情でこちらを見ていた。
「ちょっと、そこまで。修司と少しだけ会ってくるよ。
すぐ戻るから……誰か来ても、絶対に出ちゃだめだからね」頭を撫でて笑いかけると、新は小さく頷いた。
「また行っちゃうんだ?」
拗ねたように視線を逸らすその仕草が、胸に刺さる。
最近、私はたまに修司と会うようになっていた。
それが新にとって、どれだけ不安を与えているか――痛いほどわかっている。新は誰とも会わず、学校にも行かなくなり、ずっと
【二〇二五年 新】 修司さんに促され、僕は休憩室へと向かった。 自販機で缶コーヒーを二本買い、そのうちの一本を無言で差し出してくる。「ほら」 反射的にそれを受け取り、そのまま近くの椅子に腰を下ろす。「ありがとうございます」 缶コーヒーを見つめたまま動かずにいると、隣に修司さんが腰掛けてきた。「驚いたよ。杏から聞いたんだ、おまえが警察官になったって。 ちょっと調べてみたら、生活安全課の若きエースだって噂じゃないか。すごいよな」 昔と変わらない、優しく屈託のない笑顔。 変わってないな、と頭のどこかで思いながらも、胸の奥には冷たい波紋が広がっていく。 喉が渇いているのに、缶コーヒーを開ける気にもなれない。 少し間を置いてから、無理やり口を開いた。「……ありがとうございます。 でも、あなたほどじゃありませんよ」 努めて平静を装う。 それでも、自分でもわかるくらい、ぎこちない口調になっていた。 ポーカーフェイスなら、得意なはずなのに。 この人を前にすると、うまく機能しない。 心を乱されるのは、姉さんだけじゃない。 僕も同じだ。「はは、俺なんてただの七光りだよ」 気取らず笑う修司さんは、続ける。「でも、おまえは違う。自分の力でここまで来たんだ。 誇りに思えよ」 それは、姉さんがいつも言ってくれる言葉だった。 同じ言葉なのに、違う感情が胸に刺さる。 姉さんに言われると嬉しいのに、この人に言われると、なぜかムカつく。 その気持ちを隠すために、僕は缶コーヒーを一気に飲み干した。「いろいろ、大変だったな……おまえも、杏も」 缶を机に置いた修司さんが、ふいに真面目な顔をする。「ずっと心配してた。連絡もできなかったし、消息もわからなくて……」 その言葉の裏に、何があるのか。 問いかけのような視線を受け止め
【二〇二五年 新】「おい、佐原! 佐原っ」「あ、は、はい!」 まただ。 今日、いったい何度目になるのか、わからない。 上司の声が、静かなオフィスに刺さるように響いた。「おまえ、最近どうしたんだ? たるんでるぞ」 叱る声は厳しいけれど、それだけじゃない。 その奥に、僕への気遣いを感じる。「おまえには期待している者も多いんだ。俺だって期待している一人だ」 ぽん、と肩を叩かれる。 その手は、思いのほか温かかった。 生活安全課の課長である彼は、僕がここに配属されて以来、ずっと目をかけてくれている人だ。 警察官になって三年。 気づけば、自分でも驚くくらいに仕事をこなせるようになっていて、周囲からは「期待のルーキー」だとか「エース」だとか言われるようになっていた。 僕自身は、ただひたすら目の前のことに全力で取り組んできただけだ。 でも、姉さんがいつも喜んでくれた。 「新はすごいね」「誇りだよ」って、あの笑顔で言ってくれるから。 それが嬉しくて、もっと頑張ろうと思えた。 それだけで、十分だった。 だから、周りが何と言おうがどうでもいい。 ……姉さんのためなら、僕はどこまでもやれる。 ――姉さん。 佐原杏。 僕の、たった一人の家族。 母さんを早くに亡くし、父さんがあんなことになって。 ずっと、二人きりで生きてきた。 どんなに苦しくても、悲しくても、支え合いながら。 あの頃は、ただそれだけでよかった。 やっと穏やかで、静かな毎日を手に入れたと思ってたんだ。 なのに……。 また、あいつが現れた。 月ヶ瀬修司。 姉さんの心を、かき乱す。 僕は、姉さんをあいつから解放したかった。 でも、わかったんだ。 姉さんは、あの時のまま、ずっと
【二〇一五年 修司】 あれは、十月だった。 少し肌寒く感じる日が増えてきた、そんな頃。 杏のおじさんが、殺人の容疑で捕まった。 信じられなかったよ。 あの穏やかで優しいおじさんが? そんなわけない、絶対何かの間違いだって思った。 それからしばらくは、なかなか会えなくなった。 杏はおじさんのことで手一杯で、連絡だって、取れなくなっていった。 俺は、そばで支えたかった。 でも、今の俺では何の力にもなれないかもって思うと、一歩が踏み出せなかった。 それに、今はきっと誰にも会いたくないだろうって思ったし。 それでも、一度だけ勇気を出して声をかけたことがある。 ……見事、玉砕したけど。 杏のことが心配で、たまらなかった。 声をかけずにはいられなかった。 でも、君は俺に背を向け、走り去った。 ああ、やっぱり、俺は君の力になれないのかって、また落ちこんだ。 それでも、やっぱり、諦めきれなくて。 だから、必死に連絡を取ろうとした。 何度もメッセージを送って、ようやく杏から返事があった時―― 本当に、飛び跳ねるくらい嬉しかったんだ。 ……杏、知らないだろ? 俺、本気でガッツポーズしてたんだぜ。 あれは、十二月だったかな。 雪が降りそうなほど寒い中、俺は君に電話をかけるのを悩んで。 すっかり冷えてしまい、手は氷のように冷たくなった。 君がやってきて。 俺の手をぎゅっと握ってくれてさ。 すごく、あったかかったな。 そのあと、カフェでキスしてくれたよな。 ……あのキスも、俺は一生忘れない。 でも――その幸せも、長くは続かなかった。 あれから間もなく、君は俺の前から、消えてしまった。 確か……俺の家に遊びに来て、父と兄に紹介した日。 あの日、君
【二〇二五年 修司】 杏が走り去ったあとも、俺はただ立ち尽くしていた。 夏独特の、生暖かい風がまとわりついてくる。 じっとりと全身に汗がにじみ、シャツが肌に張りつく感覚がやけに不快だった。 俺は苛立ちから、額の汗を乱暴に拭った。「……なんだよ」 ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。 大きく息を吐きながら、さっき杏が消えていったドアを見つめる。 杏のあの態度……わからない。 十年前。 急に、杏は俺を避けるようになった。 あれは……たしか、寒い日だったと思う。 親父さんの事件で、杏は疲れ切っていて。 だから、俺が傍にいて、支えたいって思ったんだ。 そうして、ずっと一緒に生きていくんだって。 信じてたのに。「なんで、こんな風になったんだ……」 空を仰ぎ、杏のことを思った。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、愛しさが溢れてくる。 愛しくて、狂おしい。 俺の中で、ずっと根を張り、深く……。 十年経った今も、それは変わらず。 出会った、あの時から――一度だって、忘れたことなんてなかった。 【二〇一五年 修司】 あれは、俺がこの街に引っ越してきたばかりの頃だった。 転校初日。 校門の前で、ふと立ち止まった。 大きな木が、空を覆うように枝を広げていて、 何となく気になった俺は、それを見上げていた。 これから、ここで過ごすんだな。 ぼんやりとそう思っていた、その時。 誰かに見られている気配がして、顔を向ける。 そこに、君がいた。 杏が、ほんの少し離れた場所に立っていた。 大きな瞳で、じっと俺を見つめていて。 その視線に、息が詰まった。 可愛い。 そう思った。 今思えば、あれは間違いなく
【二〇二五年 杏】 私は俯き、静かにつぶやいた。「お父さんは……死んだ」「……えっ」 しばらく絶句していた修司が、ようやく声を震わせながら問いかけてくる。「な、なんで?」「心筋梗塞。私が十八のとき」「……そう、だったんだ……」 修司は、何も知らない。 きっと父の死も、今初めて知ったのだろう。 ショックを受けているのが、顔にありありと浮かんでいた。 彼が父の死を知れば、傷つく。 優しい人だから。 そんなこと、わかってた。 そして、真実はもっと残酷で……。 これは絶対に知られてはいけない。 修司のためにも、知らないほうが幸せなのだ。 ああ、何で私は修司と話してしまったのだろう。 なんで、言っちゃったんだろう。 修司があまりに、昔のままで。 つい、気が緩んでしまった。 言うつもり、なかったのに。 やっぱり、修司と話すべきじゃなかった。 苦しい、胸が張り裂けそう。 辛い過去の記憶が、私の心を覆いつくそうとする。「ごめん、私、もう行く」 修司といることに耐えられなくなった私は、立ち上がった。「待って!」 去ろうとした瞬間、修司が咄嗟に私の手を掴んだ。 握られた手が――熱い。 私たちは見つめ合ったまま。 時が止まったかのように、動けなかった。 彼の切なげな瞳から、目が離せない。 修司……本当は、私。 はっとして、思考を現実へと引き戻す。 私はいったい、何を考えて! 目をぎゅっと閉じ、思考を振り払うため頭を強く振った。 そして、修司の手を乱暴に振りほどく。「はな、して!」 その勢いのまま、駆け出そうとした。 だけど、修司の悲痛な声が、私の足を止めた。「杏!! どうし
【二〇二五年 杏】 私がお弁当を持ってきたことを知ると、修司は「二人きりになりたい」と言って、私を屋上へ連れて行った。「お弁当、食べていいよ。時間が無くなっちゃうと困るだろ? 食べながらでいいから、少しだけ俺と話してほしい」 屋上に着くなり、修司はベンチを指差して私を座らせると、その隣に腰を下ろした。 そして、気恥ずかしそうな笑みを向ける。 変わらない……。その優しい微笑み、穏やかな声、澄んだ瞳。 十年前と何も変わっていない修司が、そこにいた。 胸が締めつけられる。 苦しいのに、どこか嬉しかった。「じゃあ、いただきます」 修司の前でお弁当を食べるのは、ちょっと照れくさい。 でも、何かしていないと気まずくて、私は手早く包みを開いた。 緊張で、ちゃんと喉を通るのか不安だったけど。「へえ、その弁当……杏が作ったの?」 修司が私のお弁当を覗き込みながら、無邪気に目を輝かせ聞いてきた。 なんてことない一言のはずなのに、私は一瞬、答えに詰まる。「私じゃない……弟だよ」「あ……ごめん」 気まずそうに目をそらす修司に、私もなんだか気まずくなった。 普通なら、私が作った、と思うよね。 ちょっとへこむなあ。 女らしくないって思われたかな――って、いや、何を気にしてるんだ、私。 別に、修司にどう思われても関係ないのに! むしゃくしゃする気持ちを隠すように、お弁当をかきこむ。 そんな私の横顔を、修司はじっと見つめていた。 なに? なんで、そんな見つめるの? は、恥ずかしいよ~。「あのさ……そんなに見つめないでくれる? 恥ずかしいんだけど」「あ、ごめん! そうだよなっ」 修司はあわてたように笑って、視線を空に向け